観石万歩   三角点の豆知識
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三角点が設置される前の地図 日本絵図
 日本地図の作成の原点ともいうべき土地測量のはじまりと、明治時代に三角点による三角測量された地形図が作成される前の地図は、どのようなものが利用されていたのか。

○測量のはじまり
 豪族の土地の境界や租税の徴収のためにはじめられた測量は、大化の改新後の条里制や荘園地図にその足跡を残している。桃山時代には太閤検地と呼ばれる大規模土地測量も実施されたが、近代的な測量は江戸時代にポルトガルから伝わり、伊能忠敬の実地測量ではじめて地図の形になった。
 畝割塚(うねわりづか)
 測量のはじまりは飛鳥時代といわれている。現存する最古の遺跡は聖徳太子の誕生の地、明日香の里に建てられた橘寺にある。
 645年の大化の改新、律令制度の導入に伴い、土地は国有化され全国的な区画整理が行われている。この時の土地の広さの単位とされたのが畝割塚である。
 聖徳太子が勝鬘(しょうまん)経講讃をしたとき、散った蓮の華を埋めたとされる蓮華塚(れんげづか)がある。この塚を「一畝」(いっせ、約100平方メートル)と定め、面積の基準として田畑が整理されたので、畝割塚とも呼ばれている。
1畝の10倍が1反(段)、10反で1町である。


 蓮華塚(畝割塚)は本堂の東南にあり、高さ60cmほどの石垣で囲まれ、中には桜が植えられている。

○日本地図のはじまり
 昔の日本地図として有名なのは、伊能忠敬の伊能図だが、正確すぎて国防の理由で幕府に隠され、普及しなかった地図である。 伊能図以前の地図は、測量に基づかないため、絵図とよばれ、その代表的なのが、行基図(奈良時代?)、慶長日本図(江戸初期)、赤水図(江戸中期)である。
 行基図(ぎょうきず)

行基図『拾芥抄』写本(1656年)
 奈良時代の僧・行基(668〜749)が作ったとされる日本地図。注記に「大日本国図は行基菩薩の図する所也(以下略)」とある。
 平安京のある山城国から五畿七道の街道が伸ばされて全ての国とつなげられている。
 行基が生きていた時代の都は、平城京なので大和国を中心とした地図のはずであるが、こうした行基図は見つかってはいない。行基が地図を作ったのかは疑問視されている。


拾芥抄:14世紀初頭の成立と推定される百科全書
 慶長日本図(けいちょうにほんず)
 江戸幕府を開いた徳川家康が、慶長10年、全国の諸大名の領地と寺社領の分布・石高に関する調査を行うため、諸大名に国絵図(くにえず)の」提出を命じた。これを慶長国絵図というのだが、今は「慶長日本図」の部分としてしか伝わっていない。


 元の国絵図はもっと詳細なものだったと考えられる。
国絵図とは、江戸幕府が主要大名に命じて作らせた旧国単位の地図をいい、作成開始時期によって、慶長国絵図(1604-)、寛永国絵図(1633-)、正保国絵図(1644-)、元禄国絵図(1697-)、天保国絵図(1835-)と呼ばれる。


 左の右下図では、左の四角内に大阪と書かれ、右上の四角が高槻、右端の四角が郡山で、都市を結ぶ街道や河川が詳しく書かれている。
 赤水図(せきすいず)
 長久保赤水(ながくぼ せきすい)が安永8年(1775年)に作成した「改正日本輿地路程全図」(かいせいにほんよちろていぜんず)『赤水図』は、それまでの日本絵図に比して図形が飛躍的に正確であった。
 この赤水図は、それまでの資料を検証して作成されたもので、実測によるものでは無いだけに驚くべき研究成果だった。
 「一寸十里」(1296000分の1)という縮尺を備え、はじめて経緯線を取り入れた日本絵図である。

 正確さでは実測や天体観測をもとにした伊能忠敬の『伊能図』(1821年)に劣るが、幕府の重要機密扱いをうけた「伊能図」にかわり、赤水の日本絵図が明治初期まで広く利用されていた。

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 伊能図(いのうず)
 伊能図は、大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)といい、伊能忠敬が寛政12年(1800)から文化13年(1816)にかけて日本全土約3万5000qを歩いて実測した、初めての正確な日本地図である。
 この伊能図は、忠敬の没後、文政4年7月(1821年8月)に高橋景保によりやっと完成されたが、あまりに詳細な地図のため、国防上の問題から幕府が流布を禁られ、一般の目に触れることはなかった。


  
 縮尺によって、大図(1/36,000:214枚)、中図(1/216,000:8枚)、小図(1/432,000:3枚)がある。大図を貼張合わせる北海道と本州・四国・九州を分けても、その大きさは東西50m、南北38mに達し、“日本最大”の日本地図である。(右上の写真は日本大学の体育館内)

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